2012年5月7日月曜日

活動報告:お茶っこバスの運行

投稿:杉崎順一

5月2日にチーム王冠の手伝いで参加したボランティア活動では、神奈川県から王冠ボランティアとして何度も参加しているKさん(女性)と組み、「お茶っこバス」を任されました。
「お茶っこ」とは簡単に言うと井戸端会議です。ご近所さんで集まってもらって、お茶やお菓子をいただきながら雑談をする場を提供する、支援活動の一環です。


▼なぜ「お茶っこ」か?

震災後、時間の経過とともにそれなりに落ち着きを取り戻すと、不便な生活や将来の不安を抱えたままの日常が続くようになります。借上げ仮設にお邪魔した杉崎庸子の報告でもわかるとおり、やることのない日常は将来への不安と共にストレスを生み、これが原因で精神安定剤を服用したり、体を壊す人も珍しくありません。
これら日常生活におけるストレスの解消には、おしゃべり=井戸端会議が有効と言われますが、同居人以外(例えば近所の人)との会話の場は、私たちが想像するよりずっと少ないのが現状だそうです。


例えば誰かの家に集まってお茶することも「物理的には」可能だと思います。しかし「津波で汚れた部屋に他人を上げることには、たとえ近所の人であっても、たとえ同じ被災者であっても抵抗がある」とはチーム王冠代表の伊藤氏の弁です。
伊藤氏は続けました。「たとえばボランティアが被災者宅に行ったとする。津波による浸水被害はもちろん承知の上だし、汚れていようが散らかっていようが、ある意味当然だから気にしないよね。気にしないでくださいって言うでしょ。でも当の被災者は気にするんだ。家に上がってもらいたくないと思う人は少なくない。」と。


なるほど。これには思いが至りませんでした。「今日は○○さんの家で集まってお茶しよう」は実は難しいことなのかもしれません。
そこで望まれるのが気軽に集まって世間話できる場。誰かの家ではなく喫茶店とか集会場のようなところです。



▼なぜ「バス」か?

ご近所で集まれるお茶っこは、石巻市内でもいくつかのボランティア団体が行っていました。しかし震災から1年を経過したころから閉鎖が相次ぎ、常設のお茶っこは今ではほとんど残っていません(伊藤氏)。


チーム王冠では、民間の企業が持っていた内装を改造したサロンバスを借りられることになり、これを「移動お茶っこ」として活用することにしました。
バスの中にはソファーとテーブル、トイレ、冷蔵庫、給湯設備などがあります。このバスを出張させて、車内でお茶とお菓子を振舞います。移動式の強みを活かして、小さな集落でも使ってもらえますし、1日に数か所掛け持ちすることもできます。この日も午前と午後、2か所で使ってもらいました。


車内ではボランティアがお話に参加することもあれば、ご近所さん同士にお任せすることもあります。数時間だけの非常にシンプルなイベントですが、お仕着せでない自由さがあって私たちも楽しいです。文字通り「小回りの利く」お茶っこだと思います。



▼「お話し」の内容は?

ご近所さんが集まるとどんな話がされるのか--。午後のお茶っこでは10人弱の参加でしたが、皆さんが近況報告されていたのには正直驚きました。やはり日常的に世間話をできる環境は少ないようです。
また「昼間何をして過ごしているのか」は各々興味のある話題のようです。高齢者が簡単に出歩ける環境にはないので、家の中で過ごす時間が多いのでしょうか。


いろいろな困りごと、悩みが聞けましたが、「今どうしてもこれが困っている、早く何とかしてほしい」ということではないので、訴える先もないのかもしれません。
このようなストレスがさまざまな地域でため込まれているのは、どうやら間違いないようです。



▼震災から1年経って、今必要とされる支援は?


必要とされる支援活動は時間経過とともに変化します。震災直後は食料品や生活必需品などの物資支援、がれき撤去、泥出しなどカテン系支援などが中心でした。その後、支援する物資に寝具や家電品等が加わり、冬をむかえて暖房器具が喜ばれました。
ガテン系支援は今でも必要とされていますが、漁業支援など産業関係の活動が加わっています。なお食料品は今でも皆さんに喜んで受け取ってもらえます(「エンゼルボックス」は今後も続くといいと思います)。


震災直後から必要と言われていたのが「傾聴ボランティア」ですが、「お茶っこ」を行ってみると、まだまだ必要というか有効だと感じました。
いま被災者から語られる内容は、一変してしまった日常生活の不安や不満、家族の話、仕事のこと、家(住まい)のこと、病気のことやそれに伴う通院の苦労など、非常に多岐にわたります。
何気ない会話から、ボランティアとして手伝えることのヒントを得ることもできます。手書きしてもらうアンケートより「生の声」が聞けるかもしれません。

仮設住宅では「やること」の無い毎日をどう過ごすかで悩む人(特にお年寄り)が多いと聞きますし、孤独死も懸念されます。いわゆる「寄り添い型支援」はまだまだ有効というか、さらに重要になった支援のひとつだと思います。


しかしながら首都圏からだと頻繁に手伝いに行けないのが残念です。それに「どちらから来てくれたんですか?」と聞かれて、嘘も言えないので「神奈川県から来ました」と答えると「お客さま」になってしまう感じもあります。
例えば「石巻に住んでますよ」と言えれば垣根も低くなってもっと身近な話し相手になれるのかもなぁ、と。まあこれは致し方ないことなので、これから勉強していかないといけません。

2012年5月5日土曜日

借上げ仮設への訪問

投稿:杉崎庸子

5/2(水)・3(木)の2日間、チーム王冠でボランティア活動をして来ました。今回は夫だけでなく、ボランティア仲間のNさん(女性)も一緒だったので、新鮮で楽しい道中でした。

チーム王冠の方針で、活動中の写真撮影は全面的に禁止になったとのことで、今回は写真はありません。

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朝8時頃に、サポートセンターに到着。
1日目は3人それぞれ別な場所で活動することになった。

私はチーム王冠の大津氏のサポートで、借上げ仮設(震災後建設の仮設住宅では足りずに、民間の賃貸アパートなどを仮設として使用している)で生活している人への物資のお届けをした。

「実は物資を届けるのが目的ではない」と大津さん。
「借上げ仮設の人は民間の借家にバラバラに散らばっているので孤立しがち。行政の情報なども入って来にくい。困っていることがないかの聞き取りと、こちらが持っている情報などを伝えるのが本当の目的」とのこと。


政府が仮設住宅(借上げを含む)の入居期間の1年延長を決めたことも、報道はされているが、行政からの通知は出ていないのだそうだ。借上げに入居している人がそのことを知っているかどうかの確認もした。

借上げ仮設の人の情報はどうやって得たのかを聞いてみた。
地元の情報誌に「借上げ仮設に入っている人に、抽選で20名に次の3つの中から希望の物資1つを差し上げます」という募集を出したのだそうだ。抽選としながらも、希望者があればできるだけ応えたいので、物資もできるだけ調達したとのこと。お届けに行った先では「当たると思わなかったので嬉しい!」との笑顔で迎えてもらった。

募集記事に挙げた物資は、①布団3点セット(圧縮されているのか、ミカン箱の1.5倍くらいの大きさ)、②食料、③毛布、で、この順番で希望が多かったという。もう春になるというのに、布団を希望するとは、どうやって冬を過ごしたのだろうか。


向かった先は仙台市内。先方の時間の都合がうまく合わず、1日で4軒しか回れなかった。

話をお聞きしてみると、みなさん事情はそれぞれなのだけれども、一言で言うと「やることがないのがつらい」と。
仕事がないことは大きく二つの問題を生み出す。一つは実際の生活が困ること、もう一つは時間が余って考えたくないことも考えてしまって気持ちが落ち込むこと。
また、借上げ仮設では、政府や自治体の決定事項や支援の情報を得にくく、生活の方針を決める材料が乏しくなりがちなのも問題。これは自宅避難している人にも共通だが。

しかしみんな共通しているのは、暗い顔して話すことはほとんどなく、どちらかというと淡々と笑顔であること。


母子家庭の30代の母は、自営業で従業員も一人いるが、仕事先にしていたところが震災によって無くなり、よって仕事量も収入も減った。夜寝る時は病院で処方された安定剤を飲んで寝ている、とのこと。働いている時は考えなくて済むけど、夜寝る時に、風の音を聞くと眠れない。近所のおじさんたちが親切にしてくれる、と笑顔。


保育園に通っている、同じく母子家庭の20代のママは、近所に職場と保育園があって助かっている。近所づきあいはないが不安はない。分からないことは職場の人に聞ける。市政だよりは配られておらず、情報はあまり入って来ない。支援金は、震災後に離婚した夫には入ってくるが、夫がそれを自分に分けるはずはないし、話し合いにもならないので、そこが困ること。

車はなく、移動手段は自転車のみ。
これについては大津君がビックリ仰天していて、その仰天ぶりが私にはビックリ!
このお宅を失礼した後の移動中に、大津君が「車がないと生活できない、こっちでは必需品なんですよ」と。
うーーん、石巻では分かるけど、仙台でもそうなのかと、まだまだ宮城の生活が肌では実感できてない。


50代の女性。80代の舅と姑、20代の娘との借上げのアパート暮らし。
家は1階が津波に流されたが躯体はびくともしていないので、手を入れれば住めるが、2,000万円との見積もり。おじいちゃん(舅)は修理して住みたいが、ローンを組む長男夫婦(現在は別居、将来は同居の予定)は2,000万円出すなら最初から立て直した方がいいというので、悩んでいる。

農機具も作業場も流されたが、自分たちが食べる分だけでも作りたい。農業は生育を見られてやりがいがある。
被災した自宅の近所のおじさんが、畑の手入れを手伝ってくれるというから畑仕事したいけど、こっちではおじいちゃんとおばあちゃんが足腰が弱くなったので目を離せず、畑仕事をしに行かれない。
今はおじいちゃんの年金と夫の遺族年金での生活、これからもっとおじいちゃんたちにお金がかかるだろうから、仕事の収入がなく不安。内職でもいいから何かやりたい!!やることがないとボーっとしてつまんないこと考えてしまって本当につらい。

被災した自宅は広いので、この狭いアパートに馴染めない。
前はおじいちゃんたちも農作業を手伝ってくれたが、今はやることがなく、食べたらボーっとするか寝るだけ。

夫は、震災の直前に急死した。葬儀が終わって葬儀屋さんと一息ついたところで大震災に見舞われた。生前の夫は兼業農家、真面目で働き者で、家族にも優しかった。

「急死する2~3日前に『俺は長生きしたいと思わない、でもお前は長生きしろ。想像できないことが起きるかもしれないけど、大丈夫だ。家族みんなで仲良くしてくれよ』って言われて、そんなこという人じゃなかったし、その時は何言ってるのって笑って聞き流しちゃったんだけど・・・。お父さんのおかげでみんなうまく行っていた。お父さんさえ居てくれれば大丈夫だったんです。お父さんのおかげで今もみんな本当に仲が良いの」と、微笑みながら涙を流していた。
亡くなる前にお父さんが残してくれた言葉が、このお母さんを支えてるんだなと思った。



福島県の南相馬市から避難してきた30代の女性。終始にこやかに応対してくれた。
小学1年生と1歳半の男の子との3人暮らし。夫は南相馬で働いており別居。

東電からの補償は8月で終わるし高速道路も有料になるので出費が増えるのが不安材料。上の子はお父さん大好きだけど会える回数が減りそう。

でも仙台に来て、子どもたちを外で気兼ねなく遊ばせられるようになって気が楽になった。前は、草をむしって食べそうになるとか、入って行きたがるのは側溝など汚染物質が多そうなところだから気が休まらなかった。
南相馬を離れると決めるまでは気持ちが揺れたが、こっちに来たら吹っ切れた。

私たちのそばで話を聞いていた小学1年生の男の子の口から「計画的避難区域」という言葉が出てきた時はびっくりして大津さんも私も固まった。


皆さん、こちらの質問に嫌な顔もせずに真面目に答えてくれて、外に出て見送ってくださる。
この1年間でボランティアで嫌な思いをしたことは稀で、地元の皆さんの気さくで誠実な応対に、気づくと自然とありがたい気持ちになっている。
物資であれ、人の訪問であれ、少しでも喜んでもらえるなら、また来たいと思う。